物語として「説明」する

多くの科学は、出来事の理由を説明することが得意である。

たとえば、「こういうことが起こったのは、このような理由からです」という説明するのは得意である。

しかし一方で、では次に何が起こるのか、いつそれが起こるのかを予言するのは不得意である。

地震にしても、起きた理由は「説明」できるけれど、では次にいつ地震が起きるのかということは「予言」できない。

感染症にしても、感染が拡大した理由は「説明」できるけれど、では次にいつ感染が拡大するのかということは「予言」できない。

心理学も、その多くの科学と同じように、理由の「説明」は得意だけれど、「予言」をすることは基本的にはできない。

クライエントがうつ病にかかった理由は「説明」できるけれど、いつ治るかは「予言」できないし、いつ再発するかも「予言」できない。

クライエントのセラピストに対する怒りは「説明」できるけれど、いつその怒りが収まるかは「予言」できないし、いつまた怒りが湧いてくるかも「予言」できない。

それはつまり、起こった現象がまず絶対的なこととして存在していて、それに意味づけをしていくということ。

そんな風に考えると、自分達には、現象を変えるほどの力はないのだと思えてくる。

私たちはただ、起こったことに「説明」を加えているだけであって、何かを「予言」してそれを避けることもできないし、何かに直接働きかけてなんとかすることもできない。

ただ、「説明」をして意味づけているだけ。

けれど、私たちの人生は、ほとんど偶然に(必然的に)何かが起こる。

その偶然に(必然的に)起こる現象を「予言」することはできない。

私たちは、自分の人生を「説明」して意味づけることしかできないのである。

だとしたら、どれだけ自分の人生を、自分が満足する物語として「説明」できるかということが、豊かな人生ということになってくるように思う。

そうなってくると、臨床心理士なんていうのは、「説明」を考えるプロなのだから、他には負けない実力を発揮できるだろうと思う。

臨床心理士は、他者を理解するプロでもあるわけだから、クライエントが満足する物語として、起こった現象を「説明」することに関しては、誰にも負けないというか、負けてはいけないとも思う。

「予言」することの魅力に耐えながら、実直に「説明」を重ねたい。