多様な人の多様なゴール

自分が「勝ち組ではない」と受け入れること

人類が生き残る上での戦略として、集団の中に多様な人間が存在していることは重要だという説がある。

例えば、ある遺伝子を攻撃するウイルスが流行したとする。
同じ遺伝子を持つ人間のみで構成された集団であれば、それらのウイルスによって一発で種が絶滅してしまう可能性がある。
多様な遺伝子を持っている集団だと、そのウイルスで攻撃される者もいるけれど、そのウイルスがあまり効かない者もいる、というように、種が生き残る可能性は高くなる。

集団の存続にマイナスな影響を与えると考えられているサイコパスでさえも、集団の維持に役立ってきたという論が、「サイコパシーハンドブック」の中で展開されていた。

集団を維持していくためには、皆で仲良くすることが必要だけれど、それだけでは不十分で、集団を発展させていく必要もある。
そうなると、どうしても「競争」の原理が働いてくる。
競争には「勝ち」と「負け」が生まれる。
「負け」がないと「勝ち」もない。
集団の維持、発展のために、「負ける」人が必要になるということである。

現代は競争の原理で社会が回っている。
「勝ち」「負け」「お金持ち」「貧困」「出世」「落ちこぼれ」
そんな、わかりやすい競争の原理の中で私たちは生きている。

そんな競争の原理の中で生きていくのが困難になった人たちが、カウンセリングにやってくる。

カウンセリングでお会いする人の中には、競争の原理に囚われてしまっている人が多いようにも感じる。

「これでもう、出世コースからは外れてしまうんでしょうか」

「私が職場を回していたんです」

「上司に気に入られなければならないのに、迷惑をかけてしまいました」

カウンセリングの場で、そのような語りが聞かれる。

競争の原理に苦しみ、調子を崩してしまう。

だから、競争の原理から自由になることができれば、苦しみから解放されるということである。

最初の話に戻るが、人類という種全体で見た時には、集団の中に多様な種が存在していることのメリットはあるだろうし、それで社会が回っているということもわかるような気がする。

普通でない人も、サイコパスも、いわゆる負け組も、社会の維持、発展に必要だということ。

それはわかるのだけれど、
「あなたは『負け組』です。それでいいじゃないですか。そういう役割も社会には必要なんです」
と言われた時に、個人的な物語としてそれを受け入れられるかどうかはまた別の話である。

苦しみの根源は、競争の圧力にある。

そこから自由になることができれば、苦しみからは解放される。

それがわかったとて、
「じゃあ私は競争の原理から外れました。だから苦しみから解放されました」
などと簡単にいくものではない。

だからと言って、
「『勝ち組』になるようにがんばりましょう!」
と言うのでは、社会の競争の原理に則っているだけであり、その競争の原理に苦しんでカウンセリングに来ている人にとっては、何の意味もなさないことである。

カウンセリングでできることは、結局、クライエントの話を聞くということなのだろうと思う。

ある人は、「負け組」なら「負け組」でいいじゃないかとそれを受け入れるかもしれない。
自分が「負け組」だと受け入れる道は苦しい道かもしれないけれど、その歩みを一緒に抱える。

ある人は、競争の原理からどうしても抜けられずに、生涯もがき続けるかもしれない。
それも一緒に抱える。

ある人は、どっちでもいい。ただ楽しく生きられればいいんだと思うかもしれない。
それも一つの道。「ちゃんと自分が「負け組」だということを受け入れなさい」なんてことは言う必要はない。

そんな多様な人たちを支えながら、それぞれの道を見出していく。

それが、カウンセリングなのだろう。