こどもの心を見る

こどもへの対応方法として、
「一貫した対応をしなさい」
というのはよく耳にする話である。

一貫した対応とは、どういう対応だろう。

よく言われるのは、
その時々で、親がこどもの行動を許したり許さなかったりすると、
こどもが混乱してしまうということである。

確かに、親の気分によって、いつも許される行動に対して叱責されるなどの罰が与えられたり、いつもは叱られるはずの行動に対して許されたりすると、それはこどもの混乱につながるかもしれない。

たとえば、テーブルの上に立って遊ぶ3歳児がいるとする。
いつもはそれに対して親が厳しく叱責するのだけれど、親の気分によっては「元気でいいねー」などと言って承認したりしていると、こどもは「テーブルの上に立って遊ぶ」という行為が、好ましい行為なのかそうでないのかがわからずに混乱するかもしれない。

それでは、親はどんな状況でも同じ対応をすればよいかというと、きっとそうではない。

「テーブルの上に立つ」という行為は同じであっても、
その時のこどもの状態は異なる。

テーブルの上に立って、棚の上のおもちゃを取ろうとしているのか
テーブルの上に立って、親を挑発しているのか
ただ純粋にテーブルの上に立つという行為を楽しんでいるのか
テーブルの上に立って、親の目を盗んで遊ぶというスリルを楽しんでいるのか
テンションが上がって、テーブルの上に立ってしまっているのか
パニックになって、テーブルの上に立ってしまっているのか

「テーブルの上に立つ」という行為に対して、
大人が「厳しく叱責する」という一貫した対応をとるとき、
その対応はうまくいかないことが多い。

なぜなら、こどもの状況は異なるから。

「厳しく叱責する」という一貫した行為。
それは、大人の側から見た一貫性でしかなく、
こどもの側から見ると、全く異なる体験をしている。

親の目を盗んでスリルを楽しんでいる時に親から「厳しく叱責される」ことと、
パニックになって自分でもよくわからなくなっている時に親から「厳しく叱責される」こととでは、こどもの体験は全く異なる。

こどもの状態に関係なく、大人が同じ行動をとることが、効果的な一貫性ではない。

こどもの心を見て、それに合わせて対応するということ
そのような態度を貫くことが、
効果的な一貫性である。

こどもの心は見えないからこそ、
見ようとする意識はいつも持っていたいと思う。


ADHDとHSPの不安

不安を感じた時、その不安をどのように収めるかにその人の個性があらわれる。


ある人は、他者に話を聞いてもらうことで不安を収めるかもしれない。

またある人は、部屋に閉じこもって好きな音楽を聴くことで不安を収めるかもしれない。

またある人は、不安を収められずにただオロオロと動き回ったり、周囲の刺激に敏感に反応しているかもしれない。


ADHDとか、敏感さんとかが取り沙汰されているけれど、その中には、不安を上手に収められない人も隠れているような気がする。

何か不安があって、それを上手に収められなくて、いてもたってもいられなくなり動き回る。
私たちも、気になることがあって落ち着かなくて、何度も席を立ったり、ソワソワしたりすることがある。

あるいは何か不安があって、それを上手に収められなくて、周囲の刺激に敏感になる。
私たちも、精神的に余裕がなくなってくると、普段は気にならないことがどうしても気になってしまうということはある。


もしADHDとかHSPとかに分類される彼らのなかに「不安を上手に収められない」ことを背景にもつ人がいるなら、彼らに対しては、ADHDの薬を飲んだり刺激を制限したりすることよりも、「不安を収められる」ようにするためのアプローチがより有効かもしれない。

「『不安を収められる』ためのより良い方法を一緒に考え実践することで、多動や過敏さに変化が生じる」という仮説のもとに、私は彼らとやりとりしてみたいと思う。


発達障害のこどもが大人になったら

ずっと、自分が「普通」でないと感じてきました。

そんな声を聞くことは多い。

そのように感じてきた人たちすべてが、発達障害であるわけはない

けれど、発達障害のこどもたちが思春期に入ったとき、「なんか自分はみんなと違う」と感じる子は多い。

大人になった発達障害のこどもたちに話を聞くと、多くの子どもたちがこんなことをぐるぐる考えていたと話す。

「自分は『普通』じゃない」

「みんなと同じように『普通』になるためにはどうすればいいのだろう」

「いったい『普通』ってなんだ」

そして、大人になって周囲を見てみると、みんな思ったより『普通』ではないことに気づく。

「自分は『普通』じゃないけど、みんなも『普通』じゃない」

「だとすると、『普通』じゃないのが『普通』じゃないか」

そうやって、「『普通』じゃない自分」に折り合いをつけていく子が多い。

最終的な折り合いのつけ方は人それぞれかもしれないけれど、折り合いがつくということは大切なことのように思う。

人それぞれの折り合いのつけ方につきあっていく。

それも、カウンセリング。

できなくても楽しいこと

親は、どんなことを喜ぶだろう。


たとえば、こどもがなにかできるようになったことを、親は喜ぶ。

だけど、できるようになったことばかりに親が注目すると、こどもは親のプレッシャーによって、純粋に好きなことを楽しめなくなるかもしれない。

「できる」か「できない」かが、一番大切だということになって、こどもは「できそうなこと」ばかりを選択しようとするかもしれない。

「できないけれど好きなこと」にチャレンジしなくなるかもしれない。


「できる」「できない」に注目するのではなく、こどもが楽しんでいることそれ自体を認めたい。

こどもが好きなことに取り組んでいることを喜びとしたい。


結局、人生も、「できる」か「できない」かが重要ではないように思う。

だって「できる」ことばかりで人生は成り立っていないから。

「できなくても好きなこと」にチャレンジしながら「楽しむ」。

それが豊かな人生じゃないかとも思う。

そして、頑張っても「楽しめない」ものには、無理に取り組まなくてもいいような気もする。


「できる」「できない」の軸ではなく、
「楽しめる」「楽しめない」の軸を
こどもに提供できるような、
そんなかかわりをこころがけたい。


問題を見つけない

心理士は、問題を見つけるのが得意である。

ある訴えがあって、相談者が相談に訪れるとする。

心理士は、いろいろと検査をしたりして、その訴えの原因を突き止める。

けれど、ある訴えの原因がひとつだけ、なんてことはなく、ほとんど例外なく、複数の要因が絡み合って、問題は起きている。

心理士がそのすべての要因と、それらの絡み合い方を把握し、問題を解決するなんてことはできない。

解決できたとしても、複数ある要因の中の、せいぜいひとつの要因が引き起こしているものを解決できるかどうかというぐらいのもので、現実的にはひとつも解決できないことも少なくない。

ひとつの要因にしばらく取り組んでいると、相談者のことがよくわかってくる。

そうすると、相談者に関する、これまで見えなかった問題が次々と現れる。

問題を見つけるのが得意な心理士は、「これも問題だ、これも問題だ」と、問題の山に取り囲まれ身動きが取れなくなる。

そんな風に身動きが取れなくなると大抵、その他の問題は無視して、最初の訴えに関係するひとつの問題に注力しようとする。

ひとつの要因が解決することで、それが全体に波及し、全体が解決の方向に向かうことはあるかもしれないけれど、そんなのはものすごくまれなことだと思うし、そのようなミラクルが起きるためには、偶然の要素も大きくかかわってくる。

実際、問題なんて、見つけようと思えば誰にだって見つけられる。

心理士は、心理検査なんかをしたりしながら、その問題がもっともであるように理由付けをしたりするけれど、前述したように、問題を見つけたからと言ってそれが解決する可能性は低い。

だとすると、問題を見つけることや、それが問題であるというような整合性をとるために検査をするということは、あまり意味がないような気もしてくる。

大切なのは、問題を見つけることではなく、もっと別のところにあるかもしれない。

そうなると、問題を見つけることに尽力してきた心理士は、心理士がこれまで大事に抱えてきた「問題を見つける」というスキルを、手放す必要があるのかもしれない。

自律性を高める子育て

自律的であること

「こどもを自律させることが大事である」
というメッセージを目にすることが増えた。

子どもを自律させるとはどういうことだろう。

Noom(1999)は、自律的であることを以下のように定義している。

・目標を定めることができる能力
・自分自身が有能であると感じる能力
・自分の行動を規制できる能力
これらの能力によって、自分の人生に道筋をつけて進むことができること。

Noom, M. J., Deković, M., & Meeus, W. H. (1999). Autonomy, attachment and psychosocial adjustment during adolescence: A double‐edged sword?. Journal of adolescence, 22(6), 771-783.

こう見ると、自律的であることは確かに大切な能力で、特にこれからの時代に必要になってくる力だろうと思う。
言われたことを受身的にただこなすのではなく、自分自身で目標を定め、自分の能力を信じながら目標に向けて進んでいく。
機械化が進むこれからの時代には、きっとそんな自律的な人間が重宝される。

それでは、そんな自律的なこどもに育てるためには、大人はどう関わればいいのだろう。
親がこどもに自律的に関われば、こどもの自律性も育つのだろうか。
そんな疑問に答えてくれる論文がある。

Marsh,P et al.(2003)

Marsh, P., McFarland, F. C., Allen, J. P., McElhaney, K. B., & Land, D. (2003). Attachment, autonomy, and multifinality in adolescent internalizing and risky behavioral symptoms. Development and psychopathology, 15(2), 451-467.

目的

Marsh,Pら(2003)は、母親の自律的なコミュニケーションが、こどもにどのような影響を与えるかを調べている。

方法

中3と高1の生徒123名とその母親に対し、こどもの問題行動とうつや不安などの症状、母親の自律性、こどもの母親への依存度を調べ、それらの関係を検討する。

結果

母親への依存度が高いこどもの場合、母親が自律的にかかわると、こどもの問題行動(大麻・アルコールの使用、早期の性交渉)のリスクが高まる。一方、こどものうつや不安などの症状は抑制される。

一方、母親が非自律的にかかわると、こどもの問題行動のリスクは下がるが、こどものうつや不安などの症状は多くなる。

自律性の高い親は感情表現が少なく、自律性の低い親は感情表現が多い傾向にあった。

考察

母親の自律性が低い場合、こどもは母親が脆く崩れやすいものと感じる。
そんな脆く崩れやすい母親に対して、反抗したり、問題行動を示してしまうと、こどもは母親との関係が壊れてしまうと感じる。
そのため、こどもは自分がうつや不安などの症状を示すという方法で、親の注目を得ようとする。

母親の自律性が高い場合、母親はこどもにも自律的にあろうとすることを求める。
そんな親は、こどもが自身の感情に目を向けることを待たず、こどもが考えていることをすぐに主張するように求めるかもしれない。
自律性の高い親は、親自身も感情表現が少ないという結果が示されており、親子間で感情に目を向けるコミュニケーションが少ないことが示唆されている。
こどもはそんな親の自律的な行動をマネしようとするが、それは上辺だけの模倣であり、感情的に自律することはできていない。
彼らは、自身の根底にある不安を収めることができず、不安を問題行動として「自律的に」表現する可能性がある。
それはつまり、親の自律的なかかわりによってこどもの自律性は高まるけれど、よくない方向で自律性を発揮するということである。

こどもの自律性を高めるということ

こどもの自律性を高めようとして親が自律的にあろうとすると、こどもに悪影響を及ぼすことがあるということ、そして、こどもに自律性を身に着けさせるにあたっては、単に自律的にあるだけでは十分でなく、どのように自律性を発揮するかが重要であることを、Marsh,Pら(2003)は示している。

ポイントはやはり、こどもが自分で感情を収められるようになるか否かというところにあると思う。
そのために、親がこどもの感情に付き合って、ともに感情を収めるというプロセスを丁寧に踏むことが大切であり、そのようなかかわりを繰り返すことでしか、こどもは自身の感情を収められるようにはならない。

上辺だけの「自律性」でなく、地に足の着いた「自律性」を獲得できるよう、こどもたちと根気よく向き合っていきたい。
そう改めて感じた。


親子で箱庭をつくるということ

はじめに

私は、こどもやその親へのカウンセリングをメインの仕事としている。
こどもとのセラピーに箱庭を使うことがあり、こどもが誘ってくるときには私も一緒に箱庭をつくることがある。

改めて説明すると、箱庭療法とは、砂の入った箱の中に、ミニチュア玩具を並べて自分のこころを表現する心理療法である。

箱庭療法の一例

こどもが一人で箱庭をつくることと、セラピストと一緒に箱庭をつくることとは、そこで生じてくる意味がやや異なるように思うけれど、どちらもこどもにとっては大切なひとつのプロセスである。

こどもが一人で箱庭をつくることは、セラピストに見守られながら、こどもが自身の内面に深く入り込んでいくようなプロセスである。

こどもがセラピストを誘って一緒に箱庭をつくることは、誰かと一緒に物語を紡ぐというような、社会との接点を意識した動きである。

精神科医の山中康裕氏が考案したMSSM法(交互ぐるぐる描き物語統合法)も、クライエントとセラピストが交互に絵を描きながら物語を作っていく方法であり、クライエントとセラピストでひとつのものを完成させるという心理療法である。

また、線で分割した枠の中に、クライエントとセラピストが交互に色をつけていく交互色彩分割法も、クライエントとセラピストの共同作業によるものである。

交互色彩分割法に関しては、セラピストが見守り手となって、親子で色をつけていくという実践も報告されている。

このような実践を踏まえると、親子で箱庭をつくるという方法も有効であるかもしれないと感じた。

親子箱庭療法の流れ

流れとしては、以下のような流れが終結に向かっていく自然な流れのように思う。
①セラピストに見守られながら、自由な箱庭表現ができるようになる。
②セラピストと共同で、箱庭表現ができるようになる。
③セラピストに見守られながら、親と共同で、箱庭表現ができるようになる。
終結

箱庭を使うメリット

なぜ箱庭なのかということに関しては、
・絵が苦手な人に対しても活用しやすい
・「色」という抽象的すぎるものよりは直観的に理解しやすい
・イメージを膨らませやすい
というメリットがある。

親子箱庭療法によって期待される効果

親へのアプローチの目的としては、「こどもの行動の背景に目を向けられるようになってほしい」という思いがある。

精神疾患の治療として話題のメンタライジングアプローチでも、「心で心を見る能力」を高めることの重要性が謳われているが、箱庭を用いた親子へのアプローチで、その「心で心を見る能力」が高められないだろうかと考えている。

箱庭作品は、直観的に理解しやすいということはあるけれど、同時に「これはどういうことなんだろう」と、箱庭作品からイメージを膨らませるということも大切なプロセスである。

親子で作った箱庭を共有しながら、作品から感じられるイメージを膨らませていくことは、心で心を見る能力を用いて作品を共有するということであり、それは、こどもの発言や行動からこどもの心をイメージする力につながるのではないか。

親がこどもにそのように関わることで、「心で心を見る」コミュニケーションが親子間でなされることとなり、こどもも「心で心を見る能力」が育っていく。

そのような効果が期待できるのではないかと考えている。

実践はこれからであり、効果の検証もこれから行なっていくことではあるけれど、まとまったらこちらのnoteでも概要を報告したいと思う。