沈黙のことば
【「ことば」は、基本的には、他者とコミュニケーションをとるためのものである、ということを前提として】
文学評論家の江藤淳や、思想家の吉本隆明は
「沈黙は言語である」
と言います。
たしかに
他人とコミュニケーションをとることを目的としてことばをつかうよりも
思考を整理するためにことばをつかうことの方が、個人的には明らかに多い。
自分の中で問いをたて、自分の中でその問いに対する答えを探す、
それこそが「沈黙の言語」の一例である、と江藤や吉本は言います。
他者に何かを伝えるためのことばではなく、沈黙の中で完結することば。
私たちの思考はことばによって成立せしめられるものです。
思考を深いところまで掘り下げていくためには、基本的に沈黙としてのことばを用います。
人類が文明を発展させることができたのは「沈黙の言語」を高いレベルで使いこなしてきた人々の努力の結果です。
しかし、ことばの起こりについて言うと、それは他者とコミュニケーションをとる必要性から生まれたのだと想像できます。物々交換や交渉などにそれは用いられたのでしょう。
そのように考えると、人類はことばの用い方の中心をシフトさせていくことによって文明を発展させてきた、と言えます。
「沈黙の言語」の発明が、人類最大の発明であり、人間を人間たらしめるものであり、今現在の社会は、「沈黙の言語」の上に成り立っていると言えます。
ところで、「沈黙の言語」は、基本的に一個人、単独で用いられるものです。
複数人で「沈黙の言語」をやり取りすることはできません。
日本は、孤独感を感じる子どもの割合が世界で一番多いそうです。
孤独感を感じる子どもたちは、集団をつくって群れる。
常に自分以外の人間と時間を共にしようと懸命になる。
その結果、子どもたちは「沈黙の言語」を使う機会を失います。
一個人、単独で過ごす時間がない子どもたちは「沈黙の言語」を上手に使えなくなってしまうのです。
しかし、自分以外の他者と過ごす時間はうんとあるため、自分と近しい人とのコミュニケーションは豊富にとる機会があります。
「沈黙の言語」よりも、他者とコミュニケーションをとるためにことばを用いることの方が多くなる。
ことばの使い方の中心が、これまでの流れとは逆にシフトするという現象が起こっています。
《文明の発達とともにシフトさせてきたことばの流れとは、逆方向に進む》ということ。
「沈黙の言語」が自らの思考を深いところまで連れて行ってくれる、と先に書きました。
「沈黙の言語」を上手く使えない子どもたちは、深く思考することもできない。
その結果、子どもたちが使うことばは、至極浅く、表面的な、まさにコミュニケーションをとるためだけのことばとなってしまいます。
《ことばの役割が制限される》ということ。
ことばは、まだ、可能性を秘めています。
こんなところで、折り返すのは、逆戻りするのは、もったいない。
きちんと、受け継いで、きちんと、次に渡したい。
そんなセンチメンタルなことを、思いました。
だから、そんな状況なのだから、日本語さえ、まだ十分に受け継ぐことができていない私に、グローバルなんて言わないでください。
まずは日本語を、きちんと、受け継がせてください。
そんなことを思いながら、私は今日も沈黙します。