なんとかしようと思わない
あたりまえのことだけれど、
「自分の力でどうにかできるかもしれない」と思うとき、
人はどうにかしようとする。
「自分の力ではどうにもならない」と思うとき、
人はどうにかしようとはしない。
「悩み」には、どうにかできる悩みと、どうにもならない悩みがある。
どうにかできるような悩みであれば、どうにかすればいいとは思うけれど、
人間の根源的な悩みというのは、基本的には「どうにもならない悩み」の方が多い。
「どうにもならない悩み」に対して、どうにかしようと頑張って、結局どうにもならなくて、支援者も当事者も失敗体験を再度重ねるというようなことが、現場ではよく起きているような気もする。
その「どうにもならない悩み」を、ありのまま受け入れる方向でやってみましょう、というのがマインドフルネスとかACT(アクセプタンスアンドコミットメントセラピー)でもある。
けれど、「どうにもならない悩み」を扱ってきたのは、それらの心理療法が開発されるよりもっと前のことである。
河合隼雄は、「何もしない」ことに全力を注ぐことがカウンセリングであると言っている。
それも、「どうにもならない」ことに対して、何かをしようとすることのメリットの少なさに触れてのかもしれない。
私の指導教官は、「心理士がなんとかできると思っているうちは見立てが甘い」と言った。
当時は指導教官が何を言っているのかよくわからなかったけれど、今はなんとなくわかるような気もする。
クライエントの中の、どうにかできるような表面的な悩みにフォーカスをしているうちは、「見立てが甘い」状態であり、もっとその人の根源的な「どうにもならない」悩みに目を向ける必要があると言っていたのだと今は感じる。
「カウンセリングで問題解決ができる」と言う人と、
「カウンセリングで問題解決はできない」と言う人がいるけれど、
それはどのような「悩み」に焦点を当てているかというだけなのかもしれない。
「どうにかできるような悩み」に焦点を当てている人は、「カウンセリングで問題解決ができる」と言うだろうし、
「どうにもならない悩み」に焦点を当てている人は、「カウンセリングで問題解決はできない」と言うだろう。
それはそれで立場や経験が違うのだから別にいいのだけれど、「どうにもならない悩み」に対して、「問題解決できる」と言う人はやっぱり信用できない。
そういう人を見極める目は持っていたいと思う。
元気にするというシンプルな軸
元気がない人を、元気にすることがカウンセリングの目的であるという考え方。
自分が表現したことを、他者に認められることで、精神的エネルギーは充足する。
だから、カウンセリングでは、クライエントに表現をさせ、カウンセラーはそれを認める。
カウンセリングの目的を、精神的エネルギーの充足とするなら、
クライエントの精神的エネルギーをどれだけ満たせるかが、カウンセリングの優劣につながることになる。
過去のトラウマとか、問題解決とか、環境に適応できないとか、そんなことがメインの問題ではなくなる。
過去のトラウマとか、問題解決とか、環境への適応にについて話し合うことが、精神的エネルギーを満たすことにつながるようならそれでもいいけれど、もしそれがただ、精神的エネルギーをすり減らすだけの行為になるのであれば、そのことは一旦傍に置いておく。
カウンセリングでは、クライエントの精神的エネルギーを充足させることに全てをかける。
カウンセラーの言動の判断の基準を、クライエントの精神的エネルギーが満ちるかどうかというところに持っていく。
問題を一旦傍に置くことで生じるクライエントの不安や、それに伴って生じるカウンセラーの不安が、カウンセリング場面で立ち上がってくることはあるだろうけれど、それもお互いに共有しながら、今後の付き合い方を考えていく。
けれど、基本的には、カウンセラーは問題解決をする人ではないということは常に頭に置きながら、精神的エネルギーを充足させるための関わりを考えたい。
精神的エネルギーが充足した結果、クライエントはきっと何らかの行動を起こす。
行動を起こしたことで、また精神的エネルギーが減少してしまうかもしれない。
その時はまた、カウンセリングに来てもらいたい。
そうやって、チャレンジしてエネルギーをすり減らしては、他者から認めてもらうことで回復し、またチャレンジしにいく。
それは別に、カウンセリングに限ったことではなく、単なる人間の営みである。
その単なる人間の営みを、心理学を勉強した人間が、心理学的な観点で行うというだけ。
それでも、他者を認めることのトレーニングは、たくさんのお金と時間をかけて行なってきているから、単なる雑談好きのおっちゃんやキャバクラのお姉さんとは一味違うぞと、そう自負していたりもする。
雑談好きのおっちゃんでも、キャバクラのお姉さんでも、その他のいろんな要素が含まれていたりもするから、土俵が違うというのはあるかもしれないけれど。
まあ、いろんな精神的エネルギーの満たし方が世の中にあるということは、社会にとっては良いことかもしれないなあと思う。
「見つけてほしい」から「隠す」
「隠す」ということ
「隠す」ということについて考えてみたい。
こどもとの臨床をしていると、「隠す」ということがテーマになることが多い。
けれど、「隠す」というのは一体どういうことなのだろう。
改めて「隠す」ということについて考えてみたいと思うようになり、いまこの文章を書いている。
何かを隠した経験がない人というのはいないと思う。
3歳頃から、こどもは自分の大切なおもちゃを隠そうとするし、
「かくれんぼ」という遊びは、一説によると1000年以上続くロングヒットゲームである。
「いないいないばあ」なんかで、言葉をまだ理解していない赤ちゃんが笑っているのを見ると、「隠す」ということが人間の根源的な部分に関わっているのではないかと思わせる。
「隠す」ということを考えるにあたっては、
「何を」「何のために」隠すかという点に分けて考えると考えやすいように思われる。
一般的には、「見つかったら自分が不利益を被るもの」を「自分の利益のために」隠す、という場合が多いだろう。
だから、本人にとっては、隠したものは見つかってほしくないし、
周囲からすると、「自分の利益のためにコソコソ隠したりするな」ということになる。
ところで、「カウンセリングは、カーニバルのようなものだ」と言われることがある。
カーニバルでは、価値が逆転する。
奴隷が主人より先に食事を取り、執事が舞踏会で女主人と踊る。
日本の祭でも、仕事をせず昼間から酒を飲み、どんちゃん騒ぎをし、馬に引っ張られ、裸になり、男性器が崇められたり・・・などなど、普段であれば「悪」とされることが推奨される。
そして、次の日からまた、日常に帰っていく。
そのようにして人間は、自分の中の「悪」を定期的に感じたり、集団の中で共有したりしながら、日常を保っていた。
カウンセリングでも、「悪」が推奨される。
普段は憚られるような、愚痴や、自分語りや、不安の吐露が推奨される。
そこでは、社会で求められるような「良きこと」は求められていない。
カーニバルのように、価値が逆転しているのである。
話は戻って、「隠す」についてである。
カウンセリング場面では、価値が逆転する。
そうなると、
「隠すな」は「隠せ」になり、
「見つかってほしくない」は「見つけてほしい」になる。
カウンセリング場面では積極的に「隠す」ことが推奨され、そしてクライエントの「隠す」という行為は、「見つけてほしい」というメッセージを内包するものとして捉えられる。
「隠す」について書いていると、
「かくれんぼ」をして遊んでいた幼い頃のことを思い出した。
自分の身を「隠す」のだけれど、誰にも見つけてもらえなかった時の「寂しさ」は、何とも言い表しようのないものであった。
そんな風に考えると、たとえ価値が逆転しようがしなかろうが、「隠す」の裏には、「見つけてほしい」というメッセージが常に内包されているとも言えるかもしれない。
自分はどんなものを隠してきただろう。
河原で拾った綺麗な石や、エロ本や、好きな子からもらった手紙、そんなものを隠していたような気がする。
成長するにしたがって、ものはあまり隠さなくなったけれど、意識するかしないかは別として、「隠しごと」は増えたようにも思う。
それも、「見つけてほしい」というメッセージを内包した「隠しごと」なのかもしれない。
生きることとネガティブ・ケイパビリティ
ネガティブ・ケイパビリティ
事実や理由、パフォーマンス、エビデンス、そんなことが求められる社会で、ネガティブ・ケイパビリティという考え方に価値は認められず、むしろ悪とされることさえある。
成果が出ないものは、できるだけ早く打ち切りの判断をする。
効果のない方法は、すぐに改めて別の方法を試す。
不確実なものについては、原因を即座に解明する。
それらのことが「良きこと」であり、
よくわからないまま、
成果が出ないまま、
ただそれを続けるというのは「悪しきこと」とされる。
生きるということ
しかし、「生きる」というのは、不確実さや不思議さ、疑惑の中にいるということそのものなのではないかという気もする。
世界は不確実で不思議で、疑惑に満ちているからである。
その不確実さや不思議さ、疑惑の中にいることが耐えられないということは、つまり「生きられない」ことと同義であるようにも思える。
「生きられない」から、不確実さや不思議さ、疑惑を見ないようにして、なんとか「生きられる」自分の世界を創造する。
その創造の世界では「生きられる」。
けれど、そんな創造の世界だけで生きていると、その他の世界との乖離がどんどん大きくなっていく。
結果、不適応を起こすという例も少なくない。
だから、「ネガティブ・ケイパビリティ」の力こそ、生きるために必要な力なのではないかと思ったりする。
ネガティブ・ケイパビリティに生きる
ネガティブ・ケイパビリティに生きるということはどういうことだろう。
事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、疑惑の中にいること。
そのために、あまり早急に判断はしすぎないようにしたいと思う。
「良い」or「悪い」
「意味がある」or「意味がない」
「結果が出た」or「結果が出ない」
それらを決めるのは自分なのだけれど、それはその時点での自分の判断でしかなくて、もっと長い時間軸で見た時にはその判断が真逆になってくることもあるかもしれない。
また、早く判断してしまうことで、見逃してしまうこともあるかもしれない。
だから、今の自分の考えとしては、「あまり早急に判断を下さない」こと、判断を下したくなった時にも、もうちょっと判断は棚上げにした状態で、その疑惑の中にいて、そこから生まれるものを捉えていきたいと思う。
今日も、ネガティブ・ケイパビリティを発揮して、この散らかり放題の部屋を、そのままにして、ただ漂っていることにする。
心で心を思う
自己心理学のハインツ・コフートは、生まれたばかりの赤ちゃんに「自我」は備わっていないけれど、養育者が赤ちゃんを「自我」を備えた存在とみなしてかかわることで、赤ちゃんの「自我」は育つと言った。
生まれたばかりの赤ちゃんに「こうしてほしい」という明確な意思はない。
赤ちゃんにとって、赤ちゃん自身の行動は、言わば無意味な行動である。
その無意味な行動に、養育者は意味づけをしていく。
赤ちゃんが泣いていることに対して、「お腹すいたね」「オムツが気持ち悪いね」「寂しかったね」などと声をかけながら、赤ちゃんの行動に意味づけをしていく。
そうすることで、赤ちゃんの無意味な行動に意味が与えられていく。
コフートは、その養育者による意味づけが正しいとか正しくないとか、そういうことではなく、赤ちゃんの行動の背景を考えて意味づけをすることそれ自体が、赤ちゃんの「自我」を育てると言っている。
「心で心を思う能力」として「メンタライゼーション」とか「メンタライジング」という言葉が心の臨床の業界で少しずつ広がりを見せているが、そこでも、養育者がこどもの行動の背景を想像すること、つまり養育者が、養育者の心でこどもの心を思うことそれ自体が、こどもの「心で心を思う能力(メンタライジング能力)」を高めるとされている。
「この子のことがよくわからないんです」
「この子は私を困らせようとするんです」
「この子はいたずらしかしません」
そんな風に決めつけることは、「心で心を思う」ことを拒否する態度であり、メンタライゼーション的なかかわりから遠ざかる考え方である。
しかし、そのように思ってしまう養育者の背景にこそ、支援者は目を向けるべきである。
支援者が養育者にメンタライジング能力を発揮させてかかわることで、養育者のメンタライジング能力が高まり、それはこどものメンタライジング能力を高めることにつながるからである。
「あの親には話が通じない」
「あの親は全然こどものことがわかっていない」
「あの親は人格障害である」
そんな風に支援者が親を見て決めつけてしまうことが、「心で心を思う」ことを拒否する態度であり、メンタライゼーション的なかかわりから遠ざかる考え方である。
しかし、そのように思ってしまう支援者にも、きっと何らかの背景があるはずである。
支援者が職場で、メンタライゼーション的なかかわりをなされていない場合、支援者は心で心を見ることができなくなるかもしれない。
「あいつは全然仕事ができない」
「あの人は何をやってるのか全然わからない」
「心理士の仕事って意味あるの?」
すべての原因を社会に求めるという結論は安直であるように思うけれど、今社会の中で起きていることの構造を理解しつつ、それでは自分には何ができるのかというところから始めていきたいと思う。
主体性を奪う質問
2種類の質問
質問には2種類ある。
質問者が答えを想定している質問と、そうでない質問である。
誘導のための質問
質問者が答えを想定している質問は、誘導のための質問である。
誘導や洗脳などに用いられる質問は、質問というかたちをとってはいるけれど、それは質問者の想定する答えに誘導するためのものである。
一見、回答者にすべてを委ねられているようであるが、実は回答者の主体性はなく、質問者によって道筋があらかじめ決められている。
それは、回答者の主体性を奪う質問である。
主体性を広げる質問
一方、カウンセリングでなされる質問は、回答者の主体性を広げる質問である。
それは、質問者が答えを想定しない質問である。
カウンセラーは、クライエントのことを理解するために質問をする。
クライエントは、質問によって、自分自身を振り返る。
主体性を発揮して内面の探索活動を行いながら、自分自身のことを理解していく。
クライエントに質問をするとき、もしカウンセラーが自分の中になんらかの答えを想定して質問をしているとしたら、それは誘導の質問となり、回答者の主体性を奪ってしまう可能性もある。
そうではなく、カウンセラーが、純粋な興味で、自分が知りたいことを質問するとき、その質問の答えはカウンセラーのクライエント理解につながる。
そしてそれは、クライエントが自分自身を理解することにもつながる。
親から子への質問
世の中でなされている大多数の質問は、主体性を奪う質問である。
特に親子間でなされる質問はほぼ全てが主体性を奪う質問と言ってもいいくらいかもしれない。
自分自身も、気づかないうちに主体性を奪う質問をしてしまっていることがある。
子どもの主体性を広げられるように、こちらが誘導することなく、子どもの可能性に全額ベットできる器を持ちたい。
そんなことを思いながら遠くを見る。
間に挟まりながら
同調圧力と競争圧力
社会には、同調圧力と競争圧力が存在する。
同調圧力
みんないっしょ。
みんななかよく。
出る杭は打たれる。
私たちは、このような言葉によって圧力をかけられながら生きている。
つまり、同調圧力の中で私たちは生きている。
競争圧力
一方で、私たちは社会の中で競争を強いられてもいる。
偏差値や学歴で順位をつけられ、競わされ、
営業成績で順位をつけられ、競わされ、
年収や地位によっても競わされている。
矛盾を含む社会でどのように生きていくか
「自分軸」という言葉が流行っているけれど、完全に社会と切り離された「自分軸」で生きるというのは、「自閉」の世界に生きるということであり、現実的には社会との関係を持ちながら生きていくしかない。
社会には、同調圧力と競争圧力が同時に存在しているから、その中でどう生きていくかということになる。
同調圧力は、「みんななかよく、みんないっしょ」というメッセージを発信していて、競争圧力は「人との差別化と順位付け」というメッセージを発信しているわけであるから、そこには矛盾が生じる。
「みんないっしょ」と言いながら、「みんなより上に立て」と言っているのである。
気分屋のあの子もびっくりのダブルバインドである。
そんな矛盾を含む社会で、どのように生きていくか。
それは、矛盾を受け入れられない潔癖な人にとっては、生きづらい世の中かもしれない。
理不尽だと感じることもあるかもしれないし、二つの相反するメッセージの間に挟まれて身動きが取れなくなるかもしれない。
彼らが、どんなメッセージの間に挟まれて、どんな風に身動きが取れなくなっていて、挟まれながらどんなことを感じているのか。
そんなことを、私も一緒に間に挟まりながら、感じたいと思う。
きっと解決策なんてない。少なくとも短期的には。
だから、そんなどうしようもない社会で、どうしようもなさを一緒に感じることで、少しだけ、見える世界が変わることを期待したい。
一人で見る世界と、二人で見る世界は、きっと違ってくるから。