良くないことの意味

話を聞くことで
はじめはよくわからなかったものが
なんとなくわかってくる。

あるいは
わからないこと自体が
あまり気にならなくなってくる。

そんな状態の時は、
目の前のクライエントに、
真摯に向き合えていると感じる。

「クライエントのことがよくわからない」
と焦ったり、
「やりとりできない」
と諦めたり、
「こっちのフィールドに乗せよう」
と強行突破しようとしている時は、
停滞していることが多い。

クライエントの世界にダイブして、
その中でやりとりができればいいのだけれど、
ではどうすればそれができるのかとか、
どうすれば停滞しないようになるのかとか、
そんなことはいまだにわからない。

後付けの説明は、
しようと思えばいくらでもできるのだけれど、
どうにも停滞から抜け出せないというケースは
いくらでも経験する。

その停滞にも意味があるとか、
そういう意味づけもできるのだろうけれど、
そうなると何が良くて何が良くないのか、
その基準も曖昧になってくる。

良くないことに関しても、
「それも意味があるのだ」という
意味づけをしていたら、
なんでもありになってしまうような気もする。

一方で、
「なんでもありになるじゃないか」
というその不安こそが、
セラピーを不自由なものにしているという感覚もある。

本当に、「なんでもあり」なのかもしれない。

セラピストが「なんでもあり」という風に思えるときに、
クライエントも「なんでもあり」だと思えるようになって、
少し楽になるのかもしれない。

人生にも停滞はある。

停滞のない人生なんてないし、
停滞にも意味があると思える方が精神的には良いような気もする。

良くないことがあったとしても、
それを人生に意味づけていく。

若いうちの苦労は買ってでもしろとは言うけれど、
良くないことは、ないに越したことはないと個人的には思う。

小児期の逆境体験が精神的にも身体的にもさまざまなリスクにつながることもわかっている。

だから、良くないことは、ないに越したことはないのだけれど、
人生において、良くないことは起こるから。

その良くないことをどう意味づけしていくかということが大切なのだと思う。

カウンセリングにおいても、
カウンセリングの中で起こる良くないこと(例えば停滞とか)を、
どうセラピストが意味づけしていくのかということなのだと思う。

人生も、カウンセリングも、「なんでもあり」だ。

そんな、「なんでもありだ」と思える器を持っていたい。