ただ、混沌

混沌とした世界で、僕たちは『快』と『不快』という基準を得る。

母親の乳房によって、その基準を与えられる。

飢餓状態という不快な状態から、満腹という快の状態に導かれることによって。

僕たちは、世界を区切るための基準を持つ。

 

そこから僕たちは、数え切れないほどの基準を身につけていく。

いろんなものを区切っていく。

自分のオリジナルの分け方で。

何が大切で、何が不必要か。

何が善で、何が悪か。

何が感動的で、何が退屈か。

何を愛し、何を憎むか。

何に近づき、何を遠ざけるか。

何に意味があり、何がなんでもないのか。

 

僕たちはいろんなものをいろんな基準で区切っていく。

そしてそれが個性と呼ばれたりする。

知識や経験が増えれば増えるほど基準は増え、僕たちは世界を細かく区切るようになっていく。

自分の世界の区切り方≒個性は、そうやってだんだんと確立していくこととなる。

 

現代は、個性がないと、生きていけない世の中だなあと感じる。

「あなたの基準を示しなさい。」

「さあ、あなたはどう区切るのか、言ってみなさい。」

そう強要される。

 

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僕の基準なんて聞いてどうすんの?

それをまた、あなたの基準で区切ろうとしてんの?

あなたが、あなたの基準を披露したいんなら、

いますぐ聞いてあげるから言いなよ。

そんなまわりくどいことなんかしないで。

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個性が、大切にされる時代。

もうそれを通り越して、個性があって当たり前の時代、だとさえ言える。

そんな時代における無個性の生き方を考えたい。

 

世界をどう区切るかが個性であり、

知識や経験が増えるほど、個性が確立するのだとすると、

無個性というのは、知識や経験から手を離すということ。

無個性というのは、世界を区切らないということ。

無個性というのは、混沌であるということ。

 

混沌は、世の中の基準から、自分の基準から、解放された状態である。 

仏教でいう悟りとも似た概念かもしれない。 

 

人は混沌に不安を感じる。

自分という存在が危うくなってしまうから。

自分が拠り所としてきた個性が、基準が、通用しなくなってしまうから。

けれど、その不安自体が、実は自らの基準によるものなのである。

 

無個性になる。

混沌を受け入れる。

自ら混沌に身を任せる。

混沌によるアイデンティティの揺らぎを恐れるのではなく、

混沌こそをアイデンティティとする。

いや、そのような宣言すらも混沌の中に投げ込む。

 

そんな風に生きる。

心を混沌の中に生きる。

いや、そのような決意すらも混沌の中に投げ込む。

 

嗚呼、ただ、混沌。

混沌。