変人としての生き方
お客様が感動するほどのサービスを。
なんて言葉をどこかで聞いたような気がする。
想像を超えるから感動するのであって、想像の範囲内のことが起きても感動はしない。
だから、想像を超えろ。
なんてこともどこかで聞いたような気がする。
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想像を超えるから感動する。
想像を超えるから怒る。
どちらも普通の人(大多数の人)が想像することからはずれるという点では共通している。
普通の人が想像する『普通の事象』では、普通の人は感動しないし、怒らない。
普通の人が普通に振る舞っても、普通の人は感動しないし、怒らない。
『感動する事象』『怒る事象』は、『普通の事象』ではないということ。
普通の人が、想像力を働かせて、『普通ではない事象』を作り出すことは可能かもしれない。
でもそれは労力がかかることだし、労力がかかった割には、『割と普通』だったという悲しい結果にもなり得る。
もし仮に、普通じゃない人(少数派の人)を変人と呼ぶとすると、
変人が行う変人にとっての『普通のこと』は、普通の人にとっては『普通の事象』ではない。
『普通の事象』ではないため、それは普通の人の想像を超えたものであることが多く、普通の人を感動させたり、怒らせたりする。
それがどっちに転ぶかはわからない。
わかることは『普通の事象』ではないということだけ。
感動を与えるかもしれないし、怒らせるかもしれない。
でもそれでいいよね。
普通の人は普通のサービスをして、変人は変人のサービスをすればいい。
普通が変人のサービスをしようとしても無理がくるし、逆に変人が普通のサービスをしようとしても苦しくなるだけ。
変人は変人として生きる。
普通は普通として生きる。
適材適所。
でも、変人が普通のふりをしたいのなら、それもまたよし。
普通が変人のふりをしたくても、よし。
自分が納得してるのなら、それでよし。
納得してるってことは、認めた上でそうしてるってことで、それは健康です。
もし、変人しかいない世界で、僕みたいな普通がいたとしたら、逆に僕が変人になるのだろう。
もしかしたら、変人しかいない世界にすでに現在身を置いている、『自称普通の人』もいるのかもしれない。
僕の世界には、変人が多いのですか?
それとも、普通が多いのですか?
「周りに変人が多い」と評価している人、そういうあなたが変人かもしれません。
変人は変人として生きるのがよいでしょう。
そして、普通のふりをして生きてもよいでしょう。
納得しているのなら、よいでしょう。