豊かに生きることを支えるカウンセリング

子どものことを相談する親がいる。

これまで、相談機関なんていうものにはまったく縁がなかったにも関わらず、子どものことで園や学校の先生から相談機関にいくことを勧められて、生まれて初めて専門家への相談という門をくぐる。

そこで、子どもの対応について学んだり、あるいは親自身が話を聞いてもらって、頭の中が整理されたり、落ち着いたりする経験を積むかもしれない。

「親の会」なんていう集まりを勧められて、同じ境遇に立つ親たちと、話したりもするかもしれない。

そんな親たちは、別に自分の問題で、専門家に相談しているわけではない。

たとえば、親自身が、自分の発達障害に悩んでいたり、社会に適応できなくて悩んでいたり、自身のパーソナリティについて悩んでいるわけでもない。
(そういう親もいるかもしれないけれど)

相談に行くことなんて考えたこともない、カウンセリングなんて別世界のものだと思っている健康な人が、子どものことでカウンセリングに通うということである。

健康な人が、子どものことを相談しにカウンセリングを受けて、頭が整理されたり、落ち着いたりすることがあるということ。

そうだとするなら、別に、話題は子どものことに限る必要はない。

健康な人が、親の介護のことを相談しにカウンセリングを受けて、頭が整理されたり、落ち着いたりすることがあっていい。

健康な人が、自分の仕事のことを相談しにカウンセリングを受けて、頭が整理されたり、落ち着いたりすることがあっていい。

健康な人が、自分の将来のことを相談しにカウンセリングを受けて、頭が整理されたり、落ち着いたりすることがあっていい。

保護者相談は、そのような、カウンセリングを健康な人に届ける一つのとっかかりになるかもしれない。

カウンセリングは「困り」がある人に提供される、という。

しかし、まったく「困り」がない人なんて、この世にいるのだろうか。

親の介護の見通しが立たずに不安が大きくなってきて「困っている」。

託された企画のプレゼンが、一人の力ではまとめられずに「困っている」。

自分がどんな仕事をしていきたいか、よくわからなくて「困っている」。

どんな「困り」にも寄り添い、クライエントが自分自身でその「困り」に向き合うことを助けることがカウンセリングだとするなら、どんな人にもカウンセリングが提供されても良いはずである。

あとは、料金の問題があるけれど、それを高いと見るか安いと見るかは、人それぞれという部分もある。

もし可能なら、実際に体験してみてもらいたい。

私は、心理士になってからはじめて、精神科医とか、臨床心理士の人とかに、話を聞いてもらう機会を得たけれど、やっぱり話を聞くプロだなあと感じるし、頭が整理されたり、モチベーションが高まったりという感覚を実感した。
(もちろん力量の差や相性なんかもある)

自分の中のぼんやりとしたイメージが明確になって、そのイメージに近づくということは、豊かに生きるということそのもののようでもある。

だから、それをお手伝いするカウンセリングというものの価値がまた再考されることになるかもしれない。

物質的な満足ではなく、精神的な満足が追い求められるであろうこれからの時代に、カウンセリングは強みを発揮するのではないかと思っている。


物語として「説明」する

多くの科学は、出来事の理由を説明することが得意である。

たとえば、「こういうことが起こったのは、このような理由からです」という説明するのは得意である。

しかし一方で、では次に何が起こるのか、いつそれが起こるのかを予言するのは不得意である。

地震にしても、起きた理由は「説明」できるけれど、では次にいつ地震が起きるのかということは「予言」できない。

感染症にしても、感染が拡大した理由は「説明」できるけれど、では次にいつ感染が拡大するのかということは「予言」できない。

心理学も、その多くの科学と同じように、理由の「説明」は得意だけれど、「予言」をすることは基本的にはできない。

クライエントがうつ病にかかった理由は「説明」できるけれど、いつ治るかは「予言」できないし、いつ再発するかも「予言」できない。

クライエントのセラピストに対する怒りは「説明」できるけれど、いつその怒りが収まるかは「予言」できないし、いつまた怒りが湧いてくるかも「予言」できない。

それはつまり、起こった現象がまず絶対的なこととして存在していて、それに意味づけをしていくということ。

そんな風に考えると、自分達には、現象を変えるほどの力はないのだと思えてくる。

私たちはただ、起こったことに「説明」を加えているだけであって、何かを「予言」してそれを避けることもできないし、何かに直接働きかけてなんとかすることもできない。

ただ、「説明」をして意味づけているだけ。

けれど、私たちの人生は、ほとんど偶然に(必然的に)何かが起こる。

その偶然に(必然的に)起こる現象を「予言」することはできない。

私たちは、自分の人生を「説明」して意味づけることしかできないのである。

だとしたら、どれだけ自分の人生を、自分が満足する物語として「説明」できるかということが、豊かな人生ということになってくるように思う。

そうなってくると、臨床心理士なんていうのは、「説明」を考えるプロなのだから、他には負けない実力を発揮できるだろうと思う。

臨床心理士は、他者を理解するプロでもあるわけだから、クライエントが満足する物語として、起こった現象を「説明」することに関しては、誰にも負けないというか、負けてはいけないとも思う。

「予言」することの魅力に耐えながら、実直に「説明」を重ねたい。

不登校のこどもとその親たちへ

不登校のこどもとその親たちへ

いろんな偶然が重なり、不登校のこどもとその親たちを支援する事業を立ち上げることになった。

これまでも不登校のこどものセラピーはやってきたし、不登校のこどもの親御さんの相談にも乗ってきた。

けれど、予算がつくような事業を自分で企画して立ち上げるというのは初めてのことでもあり、少し戸惑っている。

頭の中を整理するために、このnoteも活用していきたいと思う。

大きな目的としては、不登校のこどもとその親が生きやすくなるようなお手伝いをするということである。

それはいいのだけれど、親子がどのような状態になることを目指して、どのようにアプローチするかということを明確にする必要がある。

個人的には、「学校に行かせる」ということをゴールにしたくはない。

なぜなら、カウンセリングによって、不登校のこどもを学校に行かせることなんてできないと思っているから。

カウンセリングを受けることで、少し元気が出て、あるいは自分のことが少し理解できるようになって、結果学校に行けるこどももいるかもしれない。

けれど、それはいろんな要素が重なってたまたま行けるようになったというだけで、それがカウンセリングの効果だと声高に言っていいのかという疑問はある。

カウンセリングを受けても学校に行けない子というのは必ず存在する。

そのような子に対して、「学校に行かせる」ことをゴールとした場合、カウンセリングを重ねれば重ねるほど、こどもも、親も、カウンセラーもつらくなってくる。

カウンセリングの時間がただのつらい時間となってしまうなら、それは誰にとってもメリットがないことであるし、むしろ悪影響となる可能性も否定できない。

だから、私は、目指す状態像を、「こどもが今より少し元気になって、親も今より少し元気になって、そしてあわよくば、親がこどものことを少し理解できるような状態になる」ことを目指したい。

そのために、カウンセリングを行いたい。

具体的なアプローチとしては、以前少しこちらでも書いた親子箱庭療法を実践できないかと考えている。

「こどもや親が元気になった」ということと、「親がこどもを理解できるようになった」ということを、どうやって測るかという問題はあるけれど、何か良い尺度を見つけたら、それで効果を測定してみようと思う。

ただ、親のニーズとしては、やっぱり「学校に行かせる」ことが強く存在していると思うので、そこをどう話し合っていくかということも課題である。

課題は山積みだけれど、少しずつクリアにしていきたい。



感じていることを感じられるようになること

感じていることを感じられるようになること

クライエント中心療法のロジャーズの弟子で、アメリカの臨床心理学者のジェンドリンは、「今ここで感じていることに意識を向けられるようになること、そしてそれを言葉にすること」の大切さを提唱した。

彼はそれをexperiencingと呼んだ。

カウンセリングがうまく展開するか、それとも停滞するかということを予測する基準としても、このexperiencingの要素が関わってくるのだという。

うまく展開しているカウンセリングでは、クライエントのexperiencingが促進されていて、停滞しているカウンセリングでは、クライエントのexperiencingが滞っている。

では、このexperiencingを促進させるようなやりとりを行えばいいということになるのだけれど、それが簡単なことではない。

ジェンドリンと同じく、ロジャーズの弟子である心理学者キースラーは、「experiencingを促進できるクライエントは、たとえカウンセラーがポンコツだろうが、カウンセリングの初期段階から、experiencingを促進していくことができる」としている。

それは、カウンセリングが成功するか否かはカウンセリングを始める前から決まっていて、それはクライエントの個々の能力に左右されるという救いのない結論のようにも思える。

問題となるのは、experiencingが促進できないクライエントに対して、どのような関わりをするかということであり、ジェンドリンもexperiencingを促進させるような、さまざまな技法を考えたようではある。

しかし、どの技法も、クライエントの元々持っている素質をひっくり返すほどのインパクトを持ったものではなかった。

カウンセリングによって、experiencingが滞っている人を改善させるというのは難しいのかもしれないけれど、experiencingという考え方は、私たちがよりよく生きるためのヒントになるようにも思う。

今自分が感じていることがうまく感じられなくなった時に、さまざまな身体症状として現れてくる。

今自分が感じていることを無視して、感じないようにする。

感覚としては限界を感じ、ヘルプを出しているにも関わらず、それが無視し続けられると、今度は頭痛や腹痛、倦怠感、不眠、気力の減退などの身体症状に変換して、身体からメッセージが発信される。

そして、強制的に心身を休ませにかかる。

このようなサイクルで、強制的に休まされて、また回復して、という流れでも悪くはないのかもしれないけれど、急に休まなければいけなくなったり、回復までのコストもかかったりするので、できればその前に感じていることに気づいて、自分でセルフケアをしたり、休養をとったりする方が良いような気もする。

自分が今感じていることをしっかり感じられるように、ジェンドリンの言うexperiencingを促進できるように、少し意識してみようと思う。

今、どんな感じを感じているだろう。

少し、頭の中はガチャガチャっとしているような感じで、胸のあたりはもこもこっと綿が詰まっているような感じがします。

嫌な感じではないです。

言葉にすると、少し感じとズレるような感覚もあるけれど、スッキリ収まるような感覚もあって、悪くないようにも思える。

今感じている感じを尋ねた時、「うーん・・・ポルポル!」と表現したタカシくんも、そんな感覚を持っていてくれてたらいいなあと思う。


多様な人の多様なゴール

自分が「勝ち組ではない」と受け入れること

人類が生き残る上での戦略として、集団の中に多様な人間が存在していることは重要だという説がある。

例えば、ある遺伝子を攻撃するウイルスが流行したとする。
同じ遺伝子を持つ人間のみで構成された集団であれば、それらのウイルスによって一発で種が絶滅してしまう可能性がある。
多様な遺伝子を持っている集団だと、そのウイルスで攻撃される者もいるけれど、そのウイルスがあまり効かない者もいる、というように、種が生き残る可能性は高くなる。

集団の存続にマイナスな影響を与えると考えられているサイコパスでさえも、集団の維持に役立ってきたという論が、「サイコパシーハンドブック」の中で展開されていた。

集団を維持していくためには、皆で仲良くすることが必要だけれど、それだけでは不十分で、集団を発展させていく必要もある。
そうなると、どうしても「競争」の原理が働いてくる。
競争には「勝ち」と「負け」が生まれる。
「負け」がないと「勝ち」もない。
集団の維持、発展のために、「負ける」人が必要になるということである。

現代は競争の原理で社会が回っている。
「勝ち」「負け」「お金持ち」「貧困」「出世」「落ちこぼれ」
そんな、わかりやすい競争の原理の中で私たちは生きている。

そんな競争の原理の中で生きていくのが困難になった人たちが、カウンセリングにやってくる。

カウンセリングでお会いする人の中には、競争の原理に囚われてしまっている人が多いようにも感じる。

「これでもう、出世コースからは外れてしまうんでしょうか」

「私が職場を回していたんです」

「上司に気に入られなければならないのに、迷惑をかけてしまいました」

カウンセリングの場で、そのような語りが聞かれる。

競争の原理に苦しみ、調子を崩してしまう。

だから、競争の原理から自由になることができれば、苦しみから解放されるということである。

最初の話に戻るが、人類という種全体で見た時には、集団の中に多様な種が存在していることのメリットはあるだろうし、それで社会が回っているということもわかるような気がする。

普通でない人も、サイコパスも、いわゆる負け組も、社会の維持、発展に必要だということ。

それはわかるのだけれど、
「あなたは『負け組』です。それでいいじゃないですか。そういう役割も社会には必要なんです」
と言われた時に、個人的な物語としてそれを受け入れられるかどうかはまた別の話である。

苦しみの根源は、競争の圧力にある。

そこから自由になることができれば、苦しみからは解放される。

それがわかったとて、
「じゃあ私は競争の原理から外れました。だから苦しみから解放されました」
などと簡単にいくものではない。

だからと言って、
「『勝ち組』になるようにがんばりましょう!」
と言うのでは、社会の競争の原理に則っているだけであり、その競争の原理に苦しんでカウンセリングに来ている人にとっては、何の意味もなさないことである。

カウンセリングでできることは、結局、クライエントの話を聞くということなのだろうと思う。

ある人は、「負け組」なら「負け組」でいいじゃないかとそれを受け入れるかもしれない。
自分が「負け組」だと受け入れる道は苦しい道かもしれないけれど、その歩みを一緒に抱える。

ある人は、競争の原理からどうしても抜けられずに、生涯もがき続けるかもしれない。
それも一緒に抱える。

ある人は、どっちでもいい。ただ楽しく生きられればいいんだと思うかもしれない。
それも一つの道。「ちゃんと自分が「負け組」だということを受け入れなさい」なんてことは言う必要はない。

そんな多様な人たちを支えながら、それぞれの道を見出していく。

それが、カウンセリングなのだろう。


良くないことの意味

話を聞くことで
はじめはよくわからなかったものが
なんとなくわかってくる。

あるいは
わからないこと自体が
あまり気にならなくなってくる。

そんな状態の時は、
目の前のクライエントに、
真摯に向き合えていると感じる。

「クライエントのことがよくわからない」
と焦ったり、
「やりとりできない」
と諦めたり、
「こっちのフィールドに乗せよう」
と強行突破しようとしている時は、
停滞していることが多い。

クライエントの世界にダイブして、
その中でやりとりができればいいのだけれど、
ではどうすればそれができるのかとか、
どうすれば停滞しないようになるのかとか、
そんなことはいまだにわからない。

後付けの説明は、
しようと思えばいくらでもできるのだけれど、
どうにも停滞から抜け出せないというケースは
いくらでも経験する。

その停滞にも意味があるとか、
そういう意味づけもできるのだろうけれど、
そうなると何が良くて何が良くないのか、
その基準も曖昧になってくる。

良くないことに関しても、
「それも意味があるのだ」という
意味づけをしていたら、
なんでもありになってしまうような気もする。

一方で、
「なんでもありになるじゃないか」
というその不安こそが、
セラピーを不自由なものにしているという感覚もある。

本当に、「なんでもあり」なのかもしれない。

セラピストが「なんでもあり」という風に思えるときに、
クライエントも「なんでもあり」だと思えるようになって、
少し楽になるのかもしれない。

人生にも停滞はある。

停滞のない人生なんてないし、
停滞にも意味があると思える方が精神的には良いような気もする。

良くないことがあったとしても、
それを人生に意味づけていく。

若いうちの苦労は買ってでもしろとは言うけれど、
良くないことは、ないに越したことはないと個人的には思う。

小児期の逆境体験が精神的にも身体的にもさまざまなリスクにつながることもわかっている。

だから、良くないことは、ないに越したことはないのだけれど、
人生において、良くないことは起こるから。

その良くないことをどう意味づけしていくかということが大切なのだと思う。

カウンセリングにおいても、
カウンセリングの中で起こる良くないこと(例えば停滞とか)を、
どうセラピストが意味づけしていくのかということなのだと思う。

人生も、カウンセリングも、「なんでもあり」だ。

そんな、「なんでもありだ」と思える器を持っていたい。


役に立たない「他との違い」

個性的になればなるほど、「社会」との距離は開いていく。

「他と違う」ということは、「希少性が高い」ということであるから、社会的な価値を高めるということが言われたりするけれど、それはその「他と違う」ことが、社会的に役に立つと判断された場合に限る。

社会的に役に立たない「他と違う」ことなんて山ほどある。
むしろ「他と違う」ことなんて役に立たないことの方が多い。

他の人は時間内に作業が終えられるのに、自分はどうしても時間内に作業を終えることができない。

人前に立つと緊張して言葉が出てこない。

電車やバスなどに乗ると、動悸がして脂汗が出てくるから、それらの乗り物に乗れない。

家を出るまでにやらなければならないマイルールがあって、それに5時間はかかる。

そんな、「他と違う」ストーリーが、カウンセリングの中では語られる。

それは、社会的には役に立たない「他と違う」ことである。

そんな社会的には役に立たない「他と違う」ストーリーにこそ耳を傾け、「他と違う」その人という人間を感じる。

誰にも「役に立つ」とされないものを取り上げる。

社会的には「役に立つ」とされなくても、精神科領域では「役に立つ」とされる情報もある。

たとえばそれは、診断や薬の処方のために「役に立つ」情報。

しかし、カウンセリングにおいては、そこからもフリーになりたい。

何かのために「話を聞く」のではなく、ただ、その人を理解するために話を聞く。

その人の「他と違う」ところをただ聞き取っていく。

突き詰めていけば、どんな人も「他と違う」人間である。

社会と隔絶されたカウンセリングルームという場所で、「他と違う」人間が確かにそこに立ち現れるように。

それはその人が個性的になるためのかかわりであるから、社会的に規定された症状が改善するとか、社会的な適応がどうなるであるとか、そんなこととは本来関係のない営みである。

むしろ、個性的になればなるほど、「社会」との距離は開いていく。

「社会」との距離は開くのだけれど、社会との距離感を保ちながら、社会へ参加するという方法もあるにはあるような気もする。

「社会」とのつながりのことは常に問われることでもあるから、どんな風に説明するかということは、考えておきたい。

あくまで、「社会」との距離感は保ちながら。